先史時代

先史時代とは有史時代以前の歴史区分に当たり、文字を使用する前の人類の歴史にあたる。その先史時代について概要ですが、簡単に説明しています。

先史時代という概念

◯先史時代が想像されなかった頃
古代インドや古代ギリシア・ローマでは、歴史とは繰り返すものという円環的時間概念があった。ギリシアのトゥキディデスピュタゴラスはこの考えを前提に置き、プラトンは『テアイテトス』にて歴史が循環する期間を36,000年と試算し、これは「プラトン年 (Platonic Year) 」または「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」と呼ばれる。この流れを受けてローマのクリュシッポス、ストア派エピクテトスマルクス・アウレリウス・アントニヌス(『自省録』第七巻)そしてポリュビオスアリストテレスらも歴史を循環するものと捉え[34]、未開の時代は想定されなかった。
ケルト人は文字をほとんど使わない一方で、その存在はカエサルの『ガリア戦記』など多くの歴史記述の中で他称として用いられて来た。この民族についての研究は15世紀頃から活発になるが、民族起源論や言語学としてのケルト語研究などが主流であり、当時は「ケルト」とは西ヨーロッパの先史時代という概念で捉えられていた。これらは19世紀に考古学が確立し、遺跡調査や人類学的分析などを通じ、ケルト人とは石器・青銅器時代人、ガリア人は鉄器時代人という大きな区別のもとケルト文化圏という概念に変化した。[35]
中世ヨーロッパ全般の歴史認識キリスト教歴史観である普遍史が支配しており、天地創造とアダムとイヴ誕生以来の歴史は聖書に記述されており、いわゆる「先史」の概念は存在しなかった[36]。大航海時代が到来し地球規模の地理および民族の知識が蓄積され、文字を持たない人間社会の存在が知られると、その位置づけについて考察が及んだ。この中に「未開の人類」を想定した例がコンドルセの『人間精神進歩史』(1793年-1794年)である。彼は、文字を持たない人間について、1)群団を作った状態 2)遊牧民族 の2段階を想定した。ただしこれはあくまでアメリカやアフリカおよびアジア辺境に実際に住む民族を色分けした交差系列的分類であり、普遍史観を壊すようなものではなかった[37]。

◯ヨーロッパにおける概念の成立
先史時代的人間の社会や生活に想像を巡らした先駆的な例はジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)で語られる、自然の中で言語も家族も持たずに理性ではなく感情で生きる自由人に見ることができる。これとほぼ同じ考えはイマヌエル・カントも『人類史の憶測的起源』(1786年)で触れているが、どちらも「憶測でしかない」と断っている[38]。
このような先史時代概念を歴史上に組み込む役割は啓蒙思想が担った。ヴォルテールは『歴史哲学』(1765年)にて、理性を持つ以前の人類を、文字を持たない禽獣がごとき状態があったと主張した[39][2- 2]。大学の歴史学者の中からは、ドイツのゲッティンゲン大学歴史学研究室からヨハン・クリストフ・ガッテラー(1727年 - 1799年)(en)やアウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァー(1753年 - 1809年)(en)らが、普遍史観による創世紀元を否定し先史的な時代を想定した[40]。
科学面から先史時代を想定して人物にビュフォンがいる。1778年の『自然の諸時期』では、熱い火の玉から地球が生まれたという想定を基本に歴史を想定し、誕生した人類は地震や噴火などの激動する自然や、肉食動物に捕食される危険の中で生き残るための工夫を重ねて技術を発展させたという説を唱えた。その一例が、当時雷がつくると考えられていた石斧であり、これは人類が石を尖らせて作ったものと述べた。[41]
さらに、積み重なった考古学的発掘品の整理をするためにコペンハーゲン博物館のクリスチャン・トムセンが『北方古代文化研究入門』(1836年)にて三時代法の古代の歴史を区分した[42]。生物学界からはチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)が人間を含む生物の進化段階を述べ、それを裏付ける化石人骨の発見が続いた[43]。このような数々の思想や発掘証拠などが積み重なり、ウィルソンやラボックらの「先史時代」という概念が一般化した。

◯中国の先史時代
中国には、西洋的な先史時代の概念が確立されてからも「石器時代が無かった」と長く考えられていた。これは、中国人は文化的に青銅器や玉(ヒスイ)には興味を持つが石器には関心を払うことが無かった点や、自分たちの祖先が石器を使うような野蛮人ではなかったという中華思想的文明観があったものと陳舜臣は述べている[44]。これは中国国内だけの考えではなく、フランスの東洋学者ラクペリ(en)は、1894年に論文『中国古代文明西洋起源説』(Western Origin of the Early Chinese Civilisation) にて、中国人は文明を持った段階で西方(バビロニア)から民族移動して来たという説を唱え、アメリカのベルトルト・ラウファー(en)も同様に、中国には石器時代は無かったと考えた[45]。
1920年前後、地質調査のために招聘されていたスウェーデンのユハン・アンデショーンは、石炭の採掘地である周口店周辺を調査中に発掘した化石の中に人類の特徴を備えた歯を見つけ、さらに詳しい調査を行った末の1929年に完全な頭骨を発見した。これが北京原人であり、中国にも先史時代があったことが判明した[46]。その後も石器時代の各段階の遺跡が続々と発見され、新石器時代から有史時代までを繋ぐ仰韶文化、龍山文化などの全容が解明された[47]。

◯日本の先史時代
日本の先史時代に対する科学的研究は、大森貝塚を発見・調査したエドワード・S・モース(1877年・明治10年来日)に始まる[48][49]。1879年(明治12年)には調査結果が纏められた『大森貝塚』に加え、ハインリッヒ・フォン・シーボルトが『考古説略』で考古学手法を解説するとともに、北海道から九州までの貝塚や古墳を調査し、日本考古学の論文を発表したことに始まる[49]。日本の先史時代は、旧石器時代から始まり、弥生時代から古墳時代にかけて終焉したものと置かれる[1]。
日本の旧石器時代浜田耕作らが発掘作業を続けて考古学的証拠を探し続けたが、第二次世界大戦後の1949年になってやっと岩宿遺跡が見つかり、その存在が確認された[45]。

◯新しい先史時代像
古典的な先史時代のイメージでは、狩猟採集に頼った不安定な食糧調達手段しか持ち得ない人類は常に飢餓の危機に晒され、そのため生活領域も人口も制限される状態(成長の限界)が長く続いていたと考えられた。これを転回させた出来事が農耕の開始であり、トマス・ロバート・マルサス(『人口論』)やルイス・ヘンリー・モーガン(「文化進化説」)やヴィア・ゴードン・チャイルド(「新石器革命」)などは、農耕という技術革新が人口増加を吸収する環境を実現し、これがさらなる文化の変革を生んだという説を唱えた。[20]
この、ひとつの定説に対する疑問が1960年代から提唱され始めた。現代に生きる狩猟採集民族を観察した結果から、その生活は必ずしも厳しいものではなく、また農耕という手段を持たないわけではないという報告がなされた。また考古学的調査から、先史時代における狩猟社会と農耕社会の比較において、生存率や栄養状態などはむしろ定住を必要とする農耕社会の方が劣り、必ずとも後者の社会を選択する必然性にも疑問が挟まれ、むしろ更新世末期の気候変動など外的要因によって豊かな狩猟社会が一時的に不安定な状態に陥り、避難的に穀類採取へ向かった結果が農耕発生に繋がったという考えもある。[20]
これには反論もあり、寒冷期と農耕の発生時期が合わない点や、気候変動の影響は地域的であり、また容易に回復することなどが挙げられている。M.コーエンはこれらを指摘した上で、狩猟社会においても緩やかに増加した人口が臨界点に達し、それまで食糧と認識されなかった小さな獲物や木の実などを食べるように食域拡大が起こり、さらなる人口増加がついには味覚に劣り大きな労力を投入しなければならない穀類採取そして農耕へ展開したと主張した。

 

参照元ウィキペディア先史時代

 

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